礼拝
友納靖史
常盤台バプテスト教会 2025.7.13 主日礼拝 ヨハネ福音書講解⑨「礼拝から湧き溢れる恵み」友納靖史牧師【ヨハネによる福音書 4章1~26節】(新共同訳 新約P.168~170)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 ヨハネの黙示録 21章6~7節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生86番「輝く日を仰ぐとき」1.2.3節
主の祈り
献金感謝
聖書 ヨハネによる福音書 4章1~26節
特別賛美 「ともに主を伝えよう」聖歌隊
宣教 ヨハネ福音書講解⑨「礼拝から湧き溢れる恵み」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 新生386番「あまつ真清水」
頌栄 新生674番「父 み子 聖霊の」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 主イエスが人と出会われる出来事は正に 「一期一会」‟Make each encounter precious”でした。ナタナエル、ニコデモ、サマリアの女性のそれぞれに隠された心の痛みや課題を主は知っておられ(ヨハ2:24b/25b)、神の不思議なタイミングによって出会い、人生が祝福へ変えられていく出来事をヨハネはこの福音書で証しします。ユダヤからガリラヤへ向かう道、サマリヤ (元北イスラエル王国首都。アッシリア帝国に滅ぼされユダヤ人と異邦人との混合が進み、純血を重んじるユダヤ人から差別され憎み合っていた) 地方を主イエスは避けることなく通られ、長旅と暑さで疲れを覚えた主は「ヤコブの井戸」で休息されました。当時の人々は生活用水を井戸から汲み出し、女性たちは水を入れた瓶を頭に載せ、家へ運ぶ重労働は太陽が沈む前の夕刻に行うのが常だったのです。ところが日の照りつける正午、人目を避け、一人の女性が井戸端に現れたのです。貴重な井戸水を守るため、水を汲み上げる手桶(たおけ)がない者は井戸から飲めないようになっていました。ですから主はその女性に助けを求めたのです。「水を飲ませてください」と。彼女は自分たちを差別するユダヤ人、それも男性が頼み事をする姿に驚きつつも対話を交わします。主は言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る(ヨハ4:13-14)」。女性は苦労して毎日、井戸へ汲みに行かなくても良い魔法のような水(H2O)があるなら欲しい…と思います。しかし主が語られたのは、人間の心と魂を潤す‟霊的な水・救いの水・バプテスマ”のことでした。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く(詩42:2-3a)」とあるように、神に命を与えられた人間は神の「言」(ヨハ1:1-5,14)である救い主・キリストにしか魂の渇きは癒されないからです。対話の最後、女性が「私はキリストと呼ばれるメシア(救い主)が来られること。その方が私たちに真理のすべてを教えてくださると信じ待っています」と彼女の霊的希望が溢れます。そこで主は宣言されました。「それは、あなたと話しをしているこのわたしである」と。こうして人生で抱えていた疑念が一気に晴れ、この女性は渇いた魂が潤されたのです。
彼女の秘めたる霊的苦痛Spiritual painつまり魂の渇きとは、「神が唯一なら、どうしてサマリア人はゲルジム山の神殿が本物で、ユダヤ人はエルサレムが本物だと争っているのか」でした。そこで主イエスは3つの答えを与え、彼女の苦痛を取り除いたのです。
第一に、神を礼拝する場所はどこでも可能であると。第二に礼拝の対象者『神』とは漠然とした方でなく、確実に存在される父と子なる神がおられると。福音書冒頭で「初めに言<キリスト>があった。言<キリスト>は神と共にあった。言<キリスト>は神であった」と宣言された真理が、彼女にも主御自身によって知らされたのです。
第三に、主イエスに指し示された「父なる神」を礼拝する時は「今(主と出会う時)」であり、神が『霊と真理をもって礼拝する者たちを求めておられる』と。こうしてサマリアの女性はそれまで完璧な愛を夫(人間)に求め、満たされなかったものが、主イエスと出会い魂の渇きが一気に癒されたのです。
今、世界各地で様々な言語、異なる賛美やスタイルにより礼拝が奉げられています。まことの礼拝とは神からの恵みが泉のように湧き溢れる場や時を互いに認め合うことです。主イエスは礼拝を奉げる方が抱える人生の疑念や苦痛を全て知っておられ、賛美・御言葉・交わりの中で霊的渇きと痛みが癒され、生きる力が注がれます。今日、あなたもこの主イエスと出会ってください。このお方だけがあなたの人生に、尽きることのない永遠の命の水を注ぎ続けてくださるお方だからです。